学校教育と学びの意欲

あれだけ暑かった夏も気づけば肌寒さすら感じる日々になっています。

そんな中、今月末から来月頭にかけて大型台風が日本を横断するようです。

それにしてもここ数年は本当に災害が各地で多発していて、

変な話、定期的に災害が起きるのが普通であるかのような変な感覚になっています。

日本人は危機意識が薄いところはあり、どうにかなるでしょ的な感覚でいたら

気づいたら逃げられなくなっていたという事態も正直あるように感じます。

今回の台風は山口県も直撃しそうなので色々と心配ですが、

なるようになるだろうで乗り切るしかないですね。←これが駄目な人の典型ですが…。

さて本題に移って今回書く内容は「学校教育がその後の学びにどう繋がるか」に関してです。

何故このようなテーマを取り上げたかというと、最近再び読書欲が強くなっていて、

特にリベラルアーツ系の書籍を積極的に読むようになっているのですが、

学生時代に学んだ世界史や日本史が果たして何の為だったのかなぁと感じています。

つまり、例えば1192年に鎌倉幕府ができたという事を学ぶ際に、

「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」はぁ、そうですかで結局終わっていて、

それまでの過程にどういう事があって、あるいは誰目線の見解なのかが不明瞭ではないかと。

また、最近読んでいる書籍にも書かれていましたが、「客観的な歴史は存在しない」と。

つまり、過去の事を書くのは結局人間であって、多かれ少なかれ主観が入り脚色もされるわけでそんな歴史が詰め合わされた1冊の書籍を学ぶことにメリットはあるのか?と正直思っています。

勿論、学びのとっかかりとしては悪くはないとは思います。

例えば小野妹子が実は男だったことを知り、この人はへぇ、遣隋使として中国に行ったんだとか日出る何たらを渡した人なんだとか興味を持つきっかけにはなるとは思います。

ただ、結局のところ試験用に丸暗記をするだけで、正直深く調べる時間すら無くて、例えば個人的に室町時代を無茶苦茶掘り下げて探求していたら、日本史の点数はおろか

他の学科も点が取れなくなってしまい、挙句の果てには良い学校に入れなくなってしまうでしょう。

マニアではなく無難な学習でないと学業で良い数字が残せないことはある一定の問題はあるように思います。

また、今は分かりませんが、僕が学んだ頃の教育(20年前)はあまりにも基礎に重点を置きすぎていました。

言い方を変えれば社会に出た時に役立つ内容ではなく、抽象的ですがそういう科目として学んでいたように思います。

つまり、将来大人になった時に繋げるというよりは、子供はこういう事を学ぶことが必要とただ定められているだけで、

そしてそれを咎めるというか改革しようとする第三者がいなかった、というよりは入り込めなかった面があるのではないかと思います。(確か以前に日教組の害悪に関する記事も書いたような…。)

「知的好奇心」という言葉がありますが、何事もうわべだけではなく意欲を持って知ろうとすることが必要です。

そして誰しも得意な分野があり、それにいつ、どうやって気づくことができるかに学校教育も一定の責任があって、

ここは先生の技量の話にもなってしまいますが、将来を背負って立つ若人が出来る限り早い段階で自らの芽を出す為のフィールドを見いだせる事を心から願っています。

編集後記:

SNSが当たり前の世の中になった時代で、良く話題に上がるのが足跡機能です。

僕も若かれし頃は好きな女の子や昔の彼女のmixiとかGREEを検索するという品の無い事をしてました笑

何かの機会で「前に見てたでしょ。」的なことを言われて恥ずかしくなったのを覚えています。

現在、SEO対策の見地からこのwordpressで情報分析をしていますが、中々面白いデータが検出されるのを目の当たりにします。

例えば、マラソン大会が増える時期には僕のマラソンネタの記事がよく見られるとか、この人はこの記事を見た後で他の類似した記事を読んだか、もしくは閉じたかとか、何故か定期的にtwitterのリンクを押す人がいるとか、まぁ色々ですね。

ブログとかは僕も調べ物をする時とかに利用するのでアリだとは思いますが、僕は本当に他人に興味が無いので、今ではたとえ彼女でもsnsの類を見ようとも思わないですね。疑いとか勘違いの原因にもなりかねませんし…。

ちなみに、友人とは定期的に連絡をするのでまるで孤独な人間ではないことを付け加えておきます汗(こう見えても結構仲良い人々いるんですよ笑。ただ、かなり少ないですけど。)