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政治系YouTubeで再認識「テレビを見なくなった理由」

中国輸入貿易15年 内山剛

中国輸入販売歴10年目。41歳。Amazon、楽天他サイトにて販売。最高月商280万円。

新卒で業界3位の通関業者(フォワーダー)入社。某大手ロボットメーカーや某超有名化粧品メーカー等担当し幅広い経験。

転職後、輸出担当やHP制作を経て独立。某大手100円ショップの卸売業者との縁があり、中国やベトナムに滞在し現在に至る。

詳しくは代表プロフィールをご覧ください。

こんな方におすすめ

  • テレビの情報が信用できないと感じている人
  • 受け身の視聴者から脱却し、自分の頭で考える力を養いたい人
  • 政治や社会報道に偏りを感じる人

近年、日本の政治やメディアの動きは目まぐるしく変化しています。ニュース番組をつけるたびに、どこかで誰かが失言をし、それをワイドショーが延々と取り上げて議論する。そんな構図が繰り返されているのを見て、「本当にこれが国民にとって有益な情報なのだろうか?」と疑問を感じる人も多いのではないでしょうか。

私自身もその一人です。今はテレビよりもYouTubeやTVerを中心に情報を得る生活をしていますが、最近、特に印象に残ったのがタレントのフィフィさんの政治系動画でした。彼女の率直な物言いと、メディアに迎合しない姿勢には非常に共感を覚えました。彼女が某コメンテーターに対して発した批判は、単なる感情論ではなく、メディア全体への問題提起でもあります。

かつては「テレビが正しいことを教えてくれる」と信じていた時代がありました。しかし今では、その信頼が崩壊しつつあります。この記事では、私がテレビを完全に手放すまでの経緯と、現代の情報環境における“自分で選ぶ”という意識の大切さについて、個人的な経験も交えて掘り下げていきたいと思います。


テレビ離れが進む理由

私がテレビから離れた最大の理由は、「価値ある情報」が極端に減ったからです。
近年のテレビ番組は、報道番組ですら“エンタメ化”の波に飲まれています。ニュースの背後には派手なテロップ、BGM、そしてコメントを繰り返すコメンテーター。肝心の事実や背景説明は二の次で、視聴者を“楽しませる”ことばかりが重視されるようになっている。まるで情報番組というより「演出されたショー」のようです。

特に朝日系の番組には、「上から目線で庶民を見下ろしているような雰囲気」が漂います。たとえば金曜の夜に放送されているバラエティー番組──長嶋一茂さんや石原良純さんが出演しているあの番組を思い浮かべてください。確かに笑える部分もありますし、出演者の個性が際立っていて人気があるのも理解できます。ですが、あの“金持ち目線”のトークを聞いていると、一般人がまるで見世物のように扱われているように感じてしまいます。

「高級料理を食べて“美味しいね”」「この家いくらするの?」──そんな会話を延々と流すだけの番組を観ても、何一つ得るものがない。むしろ“格差の象徴”を見せつけられているようで、不快感すら覚えることがあります。
テレビはいつの間にか、国民の共通言語を生み出す場ではなく、特権層が自分たちの世界を誇示するショーウィンドウに成り下がってしまったのです。

私は以前、テレビを日常的に観る生活をしていました。ニュースから情報を得て、バラエティーで気を紛らわせ、ドラマで一日を締めくくる。しかし、ある日ふと思ったんです。「この時間、何も残ってない」と。そこで思い切ってテレビを解約し、モニターだけを残しました。最初は不安でしたが、数日もすればスッキリした感覚に包まれました。
自分の興味ある分野だけをYouTubeで学び、自分の好きなタイミングで情報を得る──それだけで生活の密度がぐっと濃くなりました。今では「テレビがない」という状態が、むしろ知的な自由を与えてくれているように感じています。


オールドメディアの問題点

テレビというメディアには、構造的な欠陥があると感じています。
一言で言えば、「中立性がない」──これに尽きます。報道番組はあたかも客観的な立場から意見を述べているように見えますが、実際にはスポンサーや政治的立場に大きく左右されています。スポンサーの意向に反する内容は放送されにくく、時には“見えない圧力”によって特定の話題が意図的に避けられる。結果として、視聴者は「編集された世界」しか見せられなくなるのです。

そして、もう一つの問題が「視聴者の思考を奪う演出」です。
報道番組であっても、結論が最初に提示され、その流れに沿って映像やコメントが並ぶ。つまり、「この事件の原因は〇〇だ」「この政治家が悪い」と、あらかじめ印象操作された構成になっている。見る側が「考える余地」を持つ前に、答えが与えられてしまう。これこそが、私が“洗脳放送”と呼ぶ所以です。

かつて私は大学時代に朝日新聞を購読していました。当時は新聞が「知的な象徴」だと思い込んでいたのです。しかし今振り返れば、購読を促す方法も半ば強引でした。景品を餌に契約を迫る販売員、家電やチケットが付いてくる“おまけ商法”。当時は何も疑わなかったものの、あれもまた「読者を数で増やすための操作」だったと今では思います。

オールドメディアの最大の問題は、「受け取る側が常に受け身」であること。情報を吟味する力を育てるどころか、「信じる」ことを前提に作られているのです。その結果、思考停止したままの国民が増え、政治的判断や社会的意識にまで影響を及ぼしています。
ニュースを観て「これはおかしい」と思える人はまだ救いがあります。しかし、そう感じる人が減っていく今、メディアリテラシーを個人が磨く以外に道はありません。


情報の選択ができる時代へ

インターネットの普及によって、私たちはようやく「情報を選ぶ自由」を手にしました。
かつてはテレビや新聞が情報の入口を独占していましたが、今や誰もがスマートフォン一台で世界中の出来事をリアルタイムに追えます。YouTubeでは政治評論家から一般市民まで、多様な視点の発信が行われています。その中から自分の価値観に合う意見を探し、自分の頭で整理することができる。これは革命的な変化です。

もちろん、YouTubeにも偏った情報はあります。ですが、違うのは“選択権”が視聴者側にあること。どのチャンネルを見るか、どの発信者を信じるかを自分で決められる。この「自分で判断する自由」こそ、テレビにはない最大の価値です。

私自身、テレビを完全にやめてからというもの、学習時間が大幅に増えました。政治や経済のニュースは信頼できる個人発信者からチェックし、語学のリスニングや読書に時間を割くようになりました。結果、以前よりも精神的に安定し、無駄な怒りや不安に振り回されることも減りました。

「見ない自由」を選ぶことは、単なる拒絶ではありません。それは自分の時間と思考を取り戻す行為です。
これからの時代、情報を“浴びる”のではなく、“選び取る”姿勢が必要です。情報の洪水の中で、自分の価値観を軸に取捨選択できる人こそが、次の時代を生き抜けるのだと思います。


まとめ

テレビは、もはや“国民の共通情報源”という役割を終えつつあります。
報道とバラエティーの境界はあいまいになり、ニュースは感情的な見出しと芸能人のコメントで彩られる。かつてのように「知識を得るために観る」メディアではなく、「時間を浪費させる娯楽装置」へと変質しました。

私が伝えたいのは、「もうテレビに頼る時代ではない」ということです。
テレビは視聴者に考えさせない。だが、YouTubeやインターネットは、視聴者に考えさせる。
だからこそ、自分で情報を選び、疑い、咀嚼し、そして自分の意見として発信する。これが今後の日本人に最も求められるスキルだと感じています。

“見ない”という選択は、逃げではなく覚悟です。テレビを消すことで初めて、思考が始まる。
それに気づけた今、私はもうテレビという装置に何の価値も見出していません。

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中国輸入貿易15年 内山剛

中国輸入販売歴10年目。41歳。Amazon、楽天他サイトにて販売。最高月商280万円。

新卒で業界3位の通関業者(フォワーダー)入社。某大手ロボットメーカーや某超有名化粧品メーカー等担当し幅広い経験。

転職後、輸出担当やHP制作を経て独立。某大手100円ショップの卸売業者との縁があり、中国やベトナムに滞在し現在に至る。

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